スコーレとは、ギリシャ語で「個人が主体的に使うことが許された時間。文化創造的に充実した余暇」のこと。
ホームとは、どんな自分であってもいい、と思える絶対的な安心感・信頼感のある人・場所である。そして、一人ひとりが今の自分が最も求めていること、できる限りすることができる環境づくりをしていく、という意味を込めています。
家族の中でも日常的に起こるように、自分が自分のやりたいようにやるためには、他の人ともぶつかる。意見や考えが違おうと、ケンカしたままであろうと、家族は家族であることには変わりない。相手がありたい状態も尊重し、大きな家族であり続けるような場・学校でありたい、という願いも込めています。
Homeという言葉に込めた、行うこと・考え方について。
今、子どもたちがどんな心の状態であっても、ここにいていい、と思える場所にしていきます。それは、自分がやりたいことをできるだけやっていけるようにするトライの場とも言えるし、不安で怖くて、今はやりたくない、と自分の気持ちに正直に言ってもいい(言わなくてもいい)と思える場所でもあります。夜寝られなかったので、眠りたいだけ眠ってもいい、と思え、本当に部屋の片隅で寝ていられる場所。どんな状態であっても安心して「○○」できる場所、「○○」できることが当たり前であるよう試みます。
遊び、学ぶ場所は、校舎だけではありません。一人ひとりが遊びたい場所・学びたい場所を見つけ、そこで学ぶことができるようにしたいと考えています。
暑い夏の日なら、冷たい水が流れる川のそばや中かもしれません。落ち葉の季節には、落ち葉がたくさんある山の斜面かもしれません。町の図書館がいいなあ、と思うかもしれないし、自分の家の近くにある公園がいいかもしれません。 自分がホームと思える場所で遊び、学べるようにしていきます。
自分が行きたい場所、やりたいことがあるように、子どもたち一人ひとりに行きたい場所、やりたいことがあります。やりたいことを一緒にやってもらいたい。知ってもらいたい。そんな気持ちを子どもたちはよく抱いています。「一緒にあそぼ」。その誘い・気持ちにのってみて、一緒にやってみる。行ってみる。
イヤイヤだったけれど、行ってみて、やってみたら、とても楽しかった。嫌だ、と思う気持ちを抱いたままでもよく、それでも、他の人のところへ行ってみる。他の子どもの場所にいっても、自分でいられる(自分でいられなくてもいい)という経験を設けていきます。
自分や周りの人が知っている場所だけがホームではありません。まだ行ったことがない場所も、実は自分のホームなのです。未知なる場所は、最初はとても怖いし不安かもしれません。嫌な気持ちが湧くかもしれません。自分は知らない、でも、そこには確かに何かがある、人がいる場所がある。
他のオルタナティブスクールやフリースクール、可能ならば公立の保育園・小学校、大人たちが働いている場所など、さまざまな場所に出向きたいと考えています。また、地球環境や社会のことを映像や体験ワークを通して知る・感じる機会も創っていきます。さまざまな見知らぬ場所に出かけ、知らないことを知り、交わり、さまざまな感情や想いを抱くことを大切にしていきます。
Scoleという言葉に込めた、行うこと・考え方について。
学校では、さまざまな活動やイベントも計画しています。ですが、その活動に全員が参加しなければならない、という(暗黙の)決まりごとはしません。子どもたち自らが、どのように、いつ参加するか、もしくは参加しないかを、自らのその時の意志に応じて決めることができます。外部の人を呼ぶ特別プログラムなどでも同じです。
また、大人も子どもも活動やイベントを企画し、実施することができます。その企画に参加してもらうために声をかける、協力してくれる人を探す、なども、自分たちで考えて行います。もちろん、スタッフに相談やアドバイスを求めることもできます。
ある活動を行うとき、決められた方法で行うことを指示されることもあるでしょう。ですが、その活動の目的に沿うならば、別の方法で試しにやってみることもできるようにします。
たとえば、文字の書き順。文字には正しい書き順があります。ですが、あえて別の書き順で書いてみることを試みることもよいと考えています。別の方法を試すことで、思いもよらぬ発見があるかもしれません。その子にとって、別の方法がベストなのかもしれません。同時に、正しい方法があるのであれば、その方法もやってみることも勧めます(強要はしません)。正しさを知ることからも学ぶことはたくさんあります。
学校の特色について。3つのMultiにより、多様な遊び・学び・暮らしの環境を提供します。
どの年齢の子どもも共に学びます。たとえば、グループを分けるとしても、年齢という基準で分けるのではなく、一人ひとりや関係性を基に、もしくは、無作為や子どもたち主体で分かれます。
これは、大人が交ざって行う学びや遊びの時も同じです。交ざるからこそ湧き起こってくるさまざまな機会。その機会から学びをつくります。
誰かが教え、誰かが教わる。そういった役割を固定化しません。スタッフも子どもたちや他の大人たちから学び、子どもたちも子どもたち同士で学び合うし、大人に教えたりもします。
子どもたちは本来教えたがりです。自分が知ったこと、発見したこと、できたこと。伝えたくて、たまらないのです。学校に関わる全ての人が学ぶ人です。
目の前にいる子どもは、一人の人です。確かにその子の両親から生まれた子どもですが、誰かの子どもである以前に、その子は一人の人です。
目の前で何か尋ねてきたら答える。何か困っていたら、どうしたの?と尋ねる。忙しくて関われないときもあります。その時は、その子がそこにいる、という存在だけでも認める。存在を認め合うという関わり合いをしていきます。
開設場所など詳細が決まり次第、公開します。
運営スタッフが決まり次第、順次、公開します。
子どもたちと接する機会が増えるにつれ感じるのは「自分を生きている」ということ。今この瞬間起きていることに好奇心があり、感じていることを率直に表現する。
年齢や発達段階に応じて、表現や好奇心を向ける先や対象は日々変わるけれども、感じていること・やろうとしていることにためらいも、やってはならないという禁止ごともない。
また、2,3歳時がケンカしても、そのケンカが起きたときのお互いの気持ちを聴くだけで、自分たちだけで解決していく姿を何度も何度も目にしてきました。
子どもたちが、ルールや規則を最小限である環境の中で、おのおのの発達段階に応じて育ち、自分である状態を知る人たちの中で育っていくと、いったいどんな人になるのだろう、どんな社会や世界を創り出すのだろう、とワクワクしてたまりませんでした。
山梨県上野原市西原(さいはら)は、ほとんどすべての場所が傾斜地という中山間地域、そして少子高齢化先進地の一つです。今も炭焼きをしたり、落ち葉掃きをして畑に入れるなど昔ながらの農法を営んでいる人たちもいます。
高齢者の方々は、自分を生きる、という価値観の時代とは違う時代を生きてきた世代かもしれませんが、だからこそ、自分を生きる、自分の人生の生きるためのさまざまな知恵を、その人の存在をもって教えてくれる場所だと感じています。
また、平坦な場所がほとんどない自然あふれた場所で、土にまみれ、草や木々に囲まれ、虫や鳥や獣たちが暮らしの中にいることも、大いに子どもたち各々の発達をサポートしてくれるものと感じています。
豊かな経験を持つ人たちと共に、自然と共に暮らしをつくっている場所から学ぶ経験は、何よりも「自分を生きる」こと、これからの時代を生きていくことに深くつながる最適な環境ではないか、と考えています。